TAKASHI ABE MONOLOGUE

 あるレストランに勤めていた頃の事である。 公私にわたり可成親しくしていた調理人が、その店を辞めるといいだした。  四六時中忙しい店で、働く者のチームワークがよほどガッチリしていなければやって いけないような、そんな店を想像していただきたい。  当時、私はその店の責任者だったのだが、周囲の皆の熱心な慰留にも耳を貸さなかっ た彼が、私にだけ言った言葉がある。 曰く、「 所詮、ここはチャボヤだからな。俺はもっとレベルの高い、一流の店を作 りたいんだ。」  その「チャボヤ」の意味するところが何なのか解らず、それでもニュアンスとしては 「三流店」という感じだけが伝わってきた。  以来、その事は何年も忘れていたし、彼との交流も途絶えて、果たして彼が「一流」 のコックになったかどうかも知らずじまいだった。  ところがある日突然、私の頭の中にその言葉が浮かんできて、そしてその時、「チャ ボヤ」ではなく「チャブヤ」なのではないかと思ったのである。  彼は聞きかじった言葉で、どういう意味なのか、どういう字をあてるかなど考えもせ ず、「三流店」という語の隠語のように使ったのだろうと、私は考え到ったのだ。 「突然」とつい書いてしまったが、実はテレビで「茶ぶ台」という文字が流れたとい う伏線はあった。  正しくは「卓袱台」だろう? マッタク今のテレビの知的レベルはどうしようもない な・・・・・などと考えていた時、「チャボヤ」は「卓袱屋」ではないかと思ったのである。 今ではあまりお目にかからなくなった「卓袱台」。星一徹が怒ってひっくり返してし まうあの「卓袱台」である。  その上に並ぶであろう料理を考えると「卓袱屋」の意味も見えてくる。  要するに、家庭料理やそれに毛の生えた程度の料理を出すのが「卓袱屋」で、プロ フェッショナルはそれとは一線を画した特別な料理を出さなくてはいけない・・等とい うようなある種の意味の無い自意識といったようなものが「卓袱屋」という言葉に詰 め込まれているのだろう。  日常の食生活に供させる食事とは異なる、いわばグレードの高い料理を提供するのが 「一流店」であるという意識。 彼の言葉がそこまで明確に意味していたかどうかは不明である。  しかし、コックたちが一般に使う「卓袱屋」という、ある種の蔑みを込めた言葉が、  そういう意味なのだという事は想像に難しくない。  世を挙げて、「フランス料理」や「イタ飯」だという時代に、私が逆に 密かにでは あるが「卓袱屋」をやろうと思ったのは、その意味が解ったからだ。

  卓袱台に並ぶのは ある形式名を冠せられた料理である必要は全く無いし、名前など
無い料理だって多い。
  いや、本当は料理そのものに形式名など必要なのだろうか。
フレンチです。イタリアンです。中華でございます。果ては 和風フレンチ、和風イ
タリアン云々。
「食い物って何だろう?」と 私は考えざるを得ない。
  ある時は 単なる「エサ」であり、またある時は 女を釣る為の手続き ( あ、これも
「エサ」か・・・ )であり、味覚を媒介として、精神的満足を得るためのものでもあ
ろう。
「腹が減った。冷や飯に漬物だけでもいいから詰め込みたい」と思う時もあれば、
「量は多くなくてもいいから、何かウマイ物でも食いたい」と思う事もある。
腹をいっぱいにして血糖値を上げる為だけであれば、「食い物」は「旨い」必要など
全く無い。
  カロリーと必須栄養を コンパクトに固めたものでもいいのである。
だが、その種の 宇宙食のようなものでさえ、おいしそうな香りを付けたり、味を付
けたりという事が現実に行われている。
  何故なら、人間は摂食する時「旨い」と感じたい存在なのだ。

「 旨さ 」とは、 味覚を媒介とした精神的充足の事だろう。
思考ももちろんあるだろうが、「 旨さ 」を脳に媒介する味覚は、 地域や気候・人
種によって異なるはずである。
  また同じ人種でも、 個人個人がすべて異なる持っているだろうし、 その個人でさえ
時と場合、 季節や体調によって感じ方が変化するはずである。
生活習慣や地域的な産物など、 さまざまな要素によって思考も左右される。
勿論、 ある共通項は存在するだろうが・・・・・。
   私は、 世界三大珍味とされる ( これも誰が言い出した事なのわからないが )
 ファアグラ・キャビア・トリュフを 旨いと思って食ったことがない。
 フォアグラよりも健康なチキンのレバーの方が、 キャビアよりも自分で醤油漬けし
た筋子の方が余程おいしく感じる。
( いやいや、 カワハギの肝だって、 石ガレイの肝だって フォアグラよりは余程旨
いぞ )
  さてさて異論続出で、 話が面倒な方向にいってしまいそうなので、 元に戻そう。
  死にそうな程の空腹をかかえている時でもなければ、 私は嫌いな奴と ( あるいは
私を嫌っていると私が知っている奴と )食卓を共にしたくない。
食い物が旨くないからだ。
  卓袱台に、 私は子供の頃の一般的な家庭の 家族そろっての夕餉の団欒を重ね合せ
て、ノスタルジックになっているだけかもしれないが、 あの頃の食卓には、貧しい
なりにも暖かく、楽しいものが並べられていたと思う。
「 生きていくために食うもの 」を並べるのが卓袱台であるには違いないが、 しか
しその上には、それだけではないものも ( 形にならない ) 並んでいたはずである。
  それ等、 形にならないものが 文化を支える根元ではないか。
  だからこそ卓袱屋をやりたい。
肥満するための「 美味しい 」物を並べた豪華なテーブルでなく、 卓袱台を配して
そういう物を並べられる店を作れないか。
  料理は何でもいい。 自分でウマイとさえ思えれば、 ハンバーグあり、 スパゲティ
・グラタンあり、 生姜焼きあり、 時にはフレンチっぽく仕上げた魚料理あり、 と
もかく自分で旨いと思えば それを全てお客さんに出してしまおう。
  それが 「 チャボヤ 」ではなく 『 卓袱屋  カフェ・テン 』の基本的姿勢である。
                                         ・・・  つづく ・・・

  一流とされる・・・・・あるいは 三流でも一流を気取りたい店のスタッフは、 
「 あそこは所詮チャブヤだから 」と他の店を小馬鹿にし、 得意になっているケースが結
構多いが、 そういう姿勢からは 味覚には感じても、 脳まで、 あるいは体の奥底ま
で浸み入るような料理は 生まれてこないだろう。
( と、決めつけられるものではないが・・・・・ )
  最も悪いのは、 形だけフレンチ、 形だけイタリアンの小洒落た雰囲気で、 流行に
だけ聡い連中を相手にしている「 利 」にだけ小聡いオーナーがやっている店かな?
  調理技術の研鑚のなし、 お客様に対するもてなしも 形ばかりで心が無い。
見た目だけそれっぽい料理を出して 「 集客できているからこれで良し 」といった
姿勢の店。
  そういう店の主人やスタッフから 「 あそこは所詮 チャブヤだから 」と言われる
・・・。
  私の店は そんな店にしたい。
   食は 肉体存続の基本。 そしてそれが 豊かな感性や悟性を育てる。
  その為に「 旨い 」ものを食わなければいけない。
だからこそ 食は「 文化 」にたり得るのだと思う。
「 飽食 」するようなものではない、 真の食文化と言い得るものに、 試行錯誤を繰
り返しながらでも 何とか食らいついていきたい。
  大戦後の目覚しい復興と言われ、 続いて高度成長と言われた時代が生み出した
いわゆる「 バブル 」の時代。
  その時代が、 そして人間の飽くなき欲望が生み出した 悪しき文化としての「 飽
 」。
  また、それを支えるかのように、 今もうごめく亡霊のような者たち。
  そういうものから もう離れなければいけないと思う。
  声高く喧伝するつもりはないが、 私はいつも呟いている。
「 さらば 形骸たち。さらば 形式人間たちよ。」